花鏡の幻影日記

徒然日記です。

今年こそは花四首

今まで花の短歌なんて一首もまともなのが作れなかった。

それは俳句にのぼせていたからだ。

最近ちょっと見方が変わった。今年こそは花の短歌を書こう!

そればかりが願いだった。そして書けた。大願成就。

先に待つのは天国か地獄か。。

でも書き続ける。俳句も、そして短歌も。

 

不知火に花浮かべては埋もれゆく

魂の嘆きと海底(うなぞこ)に行く

 

燦然と立ち尽くしてる死の夏へ

果てあるさくら生き直してる

 

燃えているひとひらの花粛々と

ことしは哭くか葬送の白

 

今日という一度しかなき装いの

ことしもさくら見ればまぼろし

火の鳥14巻Intermissonより

ここで手塚治虫氏はこう説かれています。

 

なにか人間の想像出来ないエネルギーが生き物という有機物質にだけ吸収されて、

それが「生きる」という現象になるのかもしれないと・・・子ども心に思いました。

生きものが死ねばそのエネルギーははなれて、また空中にちらばる。

あたらしい個体がうまれればまた吸収される。

そのときまえの生きもの肉体に大きな影響をうけていれば・・・

それが夢や現実にナゾの思い出としてあらわれるのじゃないかと考えました。

 

と。。さすがに目の付け所が違うなと思いました。子ども心にそう思っていたなんてね。こりゃ凄い発想です。天才という言葉がちらつきます。

 

そこで私はこう思いました。

 

みな成仏するのだ。生命はつながり、循環し、四散もする。生も死も死後もそうであって、前世の記憶を持つ者が輪廻を唱えた。それは中心になった生命の核が再び現れたのであって、決して100%同じものはないのだ。

だから安心していい。信じていい。人はいつか、いや生命はいつか循環を終え成仏する定めなのだ。それは今かもしれないし、宇宙が滅んでも止まないかもしれない。

 

でもでも信じていい。一回死ねば皆成仏する。そこで生は終わり、二度と同じ生は無い。

それを成仏と呼んでもいいのじゃないだろうか。

 

世に一つ害虫と呼ぶ染み二つ

稲穂は垂れるいのち流して

一日(ひとひ)

最近火の鳥を読んでいる。少しづつ考えながら。

改めて手塚治虫はマンガの神様だと思う。思想の神様でもあると思う。

素晴らしい発想、想像、風刺、創造。

 

人の情は一日でも疎かに出来ないと思う。最近つくづくそう思う。

一日は遠い。疎かな一日はもっと遠い。疎かにすれば永遠の、そして絶対の後悔がやって来る。そんなことに最近気付いた。

あるだけの一日を後悔なく密に過ごしていく。肉親であれば特にそうであろう。そんなことを考えていた。

 

 

帰らざる一日の情の遠ければ

すべてを捨てよ夕焼けのいま

みぞれ

私たちは体があって

でもって形がないようなものであって

一人でさえ困難につながっているのに

こころまでつなげようとするなんて

なんて罪深いことなんだと

私は思ったりもするけど…

 

天から雪が降って来る

最初はガチガチだけど

どうしても降り止まないこころのさみしさが

沁み出して溶けてゆくんだね

 

こころ

近いようで遠い

つながらない素粒子

ときに雷雨

無駄なことと分かっていても

やらずには進めないものがある

無駄なことと分かっていても

どうしてもやりたいことがある

この熱い衝動に

このほとばしる情熱に

このかきむしる直線に

ふれたものだけが分かる何かが隠されている

君は今日何をしたいのか

いつも心に問うてみよ

不平をどこかでまき散らしながら

毎日我慢して耐えている君へ